プロフィール

自己紹介

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◆伊達(だて)あさひ

1983年10月生まれ てんびん座 B型

出身は富山県の田舎まち、緑あふれるところで育ちました。

現在は妻と3人の子どもたちと暮らしています。

理学療法士として16年目、延べ1000人以上の方を担当してきました。

ご自宅で介護をする方へ向けた情報発信で介護負担を減らし、あなたやご家族の笑顔あふれる生活をサポートします。

 

詳細な自己紹介は下記を読んでくださいね。

長文なので時間のある時にどうぞ。

 

本記事の目次

はじめまして

はじめまして!

ちょっとしたコツであなたの介護が楽になる! あなたも家族も笑顔になれる、そんな未来をサポートする理学療法士@伊達(だて)あさひです!

 

出身は富山県の田舎、田んぼに囲まれた緑豊かなところです。

夏はカエルの合唱が響き渡ってすごいですねw。

 

妻と子どもたち3人の家族と毎日楽しく、可笑しく、時に叱ったり…そんな38歳の父親です。

生年月日は1983年10月9日で、あのビートルズのジョン・レノンと同じ誕生日なんです!

 

好きな漫画はドラゴンボール(小さいときはテレビに釘付けでしたw)、鬼滅の刃、呪術廻戦、BUNGO(最近アツいです)など。

趣味は小学校4年生からずっと野球一筋でやってきました。

音楽はギターをやっていて友人とバンドを組んでライブも行いました。

あとはスノーボード、そして最近は子どもたちと始めたバドミントンです。

またお酒も大好きな私です。ビール、日本酒が特に好きですね!

 

理学療法士という仕事

さて私は普段何をしているかというと理学療法士(りがくりょうほうし)として病院に勤務しております。

私は理学療法士を2006年から17年以上経験しており、担当した方は延べにして2000人は超えています。

皆さん理学療法士という仕事をご存知でしょうか?

最近では映画やドラマ等(映画:『栞』、ドラマ:1リットルの涙、マンガ:リアル、など)でも見かけるようになってきており、 徐々に社会的な認知度も上がってきているように思えます。

 

理学療法とは

簡単に理学療法について説明させていただきますね。

 

理学療法とは、病気やケガを負った方に対して、また最近では障害をもつ可能性のある方に対して、基本動作能力(起きる、座る、立つ、歩くなど)の回復や維持、そして障害予防を図る、そんなことをしている仕事です。

 

詳細のリンクはこちらから↓

https://www.japanpt.or.jp/about_pt/

(参考:公益社団法人 日本理学療法士協会ホームページより)

 

なぜ私が理学療法士をめざすようになったのか?

私が理学療法士を目指すきっかけ、それは私のおばあちゃんの存在がとても大きいです。いや、おばあちゃんがいたからこの仕事に就いているといっても過言ではありません。

 

私は両親とおじいちゃん、おばあちゃん、姉2人、弟の8人家族でした。

しかも私と弟は双子。末っ子で待望の男の子、それも一気に2人も!ということで、おじいちゃんはとても喜んでくれ、両膝に2人抱えてくれていたそうです(満面の笑みだったと聞いています)。

 

そんな幸せな時間が流れていたときに私の家族にとって大きな事件がおきます。

 

おばあちゃんが病気で入院を余儀なくされる。

私が幼稚園年中のときのある朝、おばあちゃんがトイレに向かうところで急に立てなくなり、救急車で病院に運ばれていきました。

幼い自分にはなにが起こったのかわからず、呆然として立って見ていた映像が頭に残っています。

 

そしてそれからはおばあちゃんの闘病生活が始まります。

 

おばあちゃんの病気とリハビリ

おばあちゃんは脊髄梗塞(せきずいこうそく)といって、頭から背中を通っている脊髄と呼ばれる神経に関する病気に侵されました。

おばあちゃんの場合、腰から下、つまり足につながる神経が障害され、両足がまったく動かず、触れたり熱い冷たいといった感覚もすべて失くなってしまいました。

 

 

家に退院しても、今度は感覚が無いためにお尻に床ずれを発症し、その傷の処置のために手術や入退院を繰り返していました。

そんなおばあちゃんがずっと継続していたことがあります。

それがリハビリです!

入院中はもちろん、家にいるときも定期的に病院に通ってリハビリを行っていました。 小さかった私もおばあちゃんのリハビリについていったことがあります。

 

 

病院のリハビリ室は広く、色んな機械、モノがあり、子どもの私にとっては最高の遊び場のようでした(今はそんなことはできませんが当時は許してもらってましたねw)。

そんな遊び半分の私をよそに、リハビリの先生と一生懸命手足や体の運動に取り組む真剣なおばあちゃんの姿を見ました。

その顔は今まで見たことがないような表情でした。

 

というのも、おばあちゃんは常に笑顔を絶やさない人だったからです。

どんな人にも笑顔と感謝を忘れない、それが私の頭に強く印象づいています。

 

小さな自分にはまだ、この光景が将来の自分が行う仕事になっているとは想像もしていませんでしたが、頭の隅に残っていたことは本当に大きかったと、今振り返ると思います。

 

 

ここまでは簡単に今の自分を形作るきっかけについてお話してきました。

それでは自分はどんな人間なのかを紹介しますね。

少し長くなりますが最後まで読んでいただけると嬉しいです!

 

私という人間の生い立ち

私は1983年10月9日生まれです。

両親とおじいちゃん、おばあちゃん、姉2人、弟の3世代8人で生活していました。

そして私は双子として生まれてきました。

しかも1卵生双生児だったので、近所の方はどっちがどっちか見分けがつきませんでしたw。

 

幼少期は兄弟で遊び・競い合っていた

小さいとき両親は仕事と農業で忙しく、普段両親にはあまりかまってもらえませんでした。

親に迷惑をかけまいと兄弟だけでよく遊んでいたのを覚えています。

当時好きだったことはレゴブロック、日本地図のパズルで、作っては崩し、作っては崩しということをひたすら繰り返し、1,2時間は平気で同じことに取り組んでいましたね。

 

また実家の家業の手伝いもよく行っていました。

実家は農家です。主に米作りとチューリップ栽培を行っていました。

チューリップは観賞用としてお花を愛でるイメージが強いですが、チューリップ農家は花ではなく球根を出荷するので、もったいないかもしれませんが花が咲くとすぐ摘み取り作業に入ります。

その花摘みの手伝いをお小遣い稼ぎも兼ねて行っていました。

兄弟間でどっちが速く摘み取れるかを競争したり、どう摘み取ったら効率よくたくさん摘めるかを自分で考えたりしていました。

 

幼い時の父への憧れ・恐れ

父は小中は野球、高校では柔道を経験しており、小さいとき休みの日はキャッチボールをしてくれました。 当時の私達にとって父の投げる球はとても速くて驚いたことを記憶しています。父のように速い球が投げられるようになりたいと、父への憧れを抱いたことが野球を始めるきっかけだったと思います。

 

父の人柄

そして父は公務員として働いており、正義感が強く頼まれたことはやりきる性格で、人からの信頼も厚い人でした。

また私達には礼儀や学校や地区の行事ごとなどは参加するよう教えていたので、決められたことはしっかりやるということも小さい時から気をつけていました。

なので自分の性格というのは父の影響を受けているように思えます。

 

そんな父もお酒が入ると人が変わってしまいます。お酒が入ると我が子に絡んでくるところが昔からありました。

なのでお酒が入る父は正直苦手というか嫌いでした。

 

ある日親戚との集まりでの出来事です。

いい具合にお酒が入り、案の定、子どもたちに絡んできます。

ただちょっかいを出すだけならまだ良かったのですが、その日は信じられないことに自分の結んでいたネクタイで私の首を締め上げるのです。

柔道を経験していた父に敵うわけもなく、もうすぐ落とされかけ泣いてしまったということがありました(ほんとうに死ぬかと思いました…)。

 

父に認められたい私。しかし・・・

そして父はなかなか素直に私のことを褒めてくれませんでした。

かけっこで1番をとっても、テストでいい点をとっても、習い事で試験に合格しても。

何かにつけて「ふーん」、「もっとこうできるだろう」と。

一言でいいから「よくやった」という言葉が欲しかった…。

 

いつしかそんな父に認めてもらいたいと思うようになり、真面目ないい子を演じるようになっていきました。

 

父が仕事の関係で単身赴任で県外に行ってしまったというのも、そんな思いを強くしたきっかけになっています。

それがわかったときはそんな父でもいなくなるのが寂しくて布団に包まって泣いていた記憶があります。

 

学生時代は優等生(を演じていた!?)

そんなとき、小学2年の私に事件(そんな大それたものではありませんがw)が起こります。

 

通称おなら事件。

 

休み時間男女2人ずつの4人で話をしていたとき、我慢できず突然「プッ」とおならをしてしまったのです。

 

当然誰がやった?という話になりますよね。

私は失敗を悟られたくなかったので自分がしたとは恥ずかしくて言えませんでした。

4人で話をしていたうちの2人は同じ幼稚園の子で、前からよく知る仲でした。

私もバレるのが怖かったので誤魔化したことと、2人がまさか私が人前でおならをするような人ではない、というイメージを持っていたので、そうなるともう一人に矛先が向くのは当然のことでした。

 

良いイメージを持たれていると悪く言われることがないと知った瞬間であり、優等生でいるといいことがあるということを強化した出来事でした。

 

野球を始める。しかし最初は…

小学校4年生になってスポーツ少年団に入団できるようになり、体を動かすのが好きな私は迷うことなく「入りたい」と親に持ちかけました。

前述の通りに父との思い出のある野球に入団…と思いきや、始めはサッカーに入団しました。

 

なぜか?

 

そこには弟の存在がありました。

 

弟は野球部に入ると決めていたので、何か同じ部に入るのが嫌だった私は弟と違うスポーツをやろうと決め、そこで従兄弟がやっていたサッカーにしました。

道具を揃え、サッカーに入団して1週間。

 

・・・ ・・ ・

 

サッカー部を辞めましたw。

 

 

やっぱり野球がやりたかった。

 

自分の気持ちには素直にならないといけませんでしたね。

サッカーの練習の後に野球の練習に混ぜてもらっていた私は、サッカーよりも楽しく感じていたのです。

小さい頃にやった父とのキャッチボールが忘れられませんでした。

 

サッカーのコーチにも事情を説明し、野球部に再入団しました。

そこから野球漬けの日々の始まりです。

中学生では親の我慢を知る

当時世間ではスニーカーブームが到来していました。

もちろん私の中学校でもAir Max95やエアージョーダンなどの人気スニーカーを履いている人がいて、自分も憧れていました。

反抗期真っ只中で親とまともに口を利いていない時でしたが、自分もほしいスニーカーがあると、親に直談判しました。

すると

 

母「これいくらするの?」

私「1万○千円」

母「は?私が履いてる靴はいくらかわかる?数千だよ。あんたらのためにどれだけ我慢してると思ってるの?」

 

と、こっぴどく怒られてしまいました。

親にはそんなに我慢させているのかと本当に申し訳なく思いましたし、お金がないと好きなものを買えないと思った瞬間でした。

 

最終的にそのスニーカーを買ってくれた親には感謝したのと同時に、親となると子どものために我慢しなければいけないことがあると知りました。

 

チームスポーツを通して仲間のためにという考え方を学ぶ

中学では野球以外に3年生の時に駅伝チームに選抜されました。

自分より速い人はまだ何人かいましたが、人柄などを考慮したコーチの判断もあり、ぜひやってほしいとのことだったので、その駅伝に参加することを決めました。

 

練習はひたすら走り込むこと。

30分や1時間走は当たり前。

時にインターバル走、ダッシュなど、練習は過酷だったと思います。

 

思いますというフワッとした感想なのは、練習が過酷だったことよりこのチームで最後まで戦えたことの喜びの方が大きい体験だったからです。

チームは8人。

そのうち試合に出れるのは6人。

 

試合1ヶ月前にメンバーが決定しました。

自分はなんとか選ばれましたが、当然外れたメンバーもいたわけです。

でも外れた2人は腐りませんでした。

それよりか、チームのために何ができるかを考えてくれ、よりよいパフォーマンスができるようサポートに徹してくれたのです。

 

それに応えないことには男ではない!

チームは大会当日奮闘し、全体で9位という結果を得ました!

前評判ではその順位は考えられなかったと、監督より後から聞きました。

チーム全体で勝ち取った9位でした。

皆でやりきった充実感と、もうこのチームで走ることはない寂しさと、色々な感情がこみ上げてきたことを思い出すと、今でも胸が熱くなります。

 

この駅伝を通してチーム一丸で戦った記憶はとても思い出深いものとなったし、何より自分のためだけでなく、チームのため、仲間のために尽くす素晴らしさを学んだ素晴らしい経験となりました。

 

高校野球もまた素晴らしい経験

高校は県内でも有数の進学校へ進みました。

当然部活だけでなく日々の勉強も大変なわけです。

部活で疲れ切って帰った私は、なんとか次の日の予習をして寝る。

そして授業中にも同時進行で授業と予習を進めるということを行い、何とかついていっていました。

 

もちろん高校でも野球を続けました。

それは野球が好きだったから。

自分の好きはとことん続ける信条なので、辛い練習もみんなでやれば苦ではありませんでした。

 

1年生の夏~いただいたチャンス~

私は幸いなことに高校1年の夏から大会に出させてもらうことができました。

レギュラーの3年生の先輩が大会1ヶ月前に骨折、同じく2年生の先輩も2週間前の練習試合で顔面に打球を受け骨折。

順番が私に回ってきました。

先輩の代わりを務めるプレッシャーは計り知れないものがありましたが、1年生なりにがむしゃらにプレーしました。

 

が、そんな甘いものではなく、結果は出せず。 先輩の代わりが務まらなかったと申し訳ない気持ちでいっぱいでした。

そこから気持ちを入れ、さらに練習に励みます。

 

2年の夏が終わり新体制になったとき、私がキャプテンに指名されました。

ただしそれも表上のキャプテンで、裏では副キャプテンの子が仕切っているような感じでしたw。

面倒なことは私が請け負うような形でしたね。。

でもそれでうまくいっていたのも事実ですw。

 

高校野球では怪我に悩まされる…

しかし、選手としてはケガに悩まされた時期でもありました。

まず高1の冬。

野球のボールというのは硬式と軟式があります。

一般的に高校野球やプロ野球というのは硬式ボールを使用しています。

 

硬式は文字通り石のように固い!

そのボールをグローブで受けるのですが、父の教えでずっと人差し指でボールを受けていました。

すると人差し指の血流が悪くなってしまったのです。

血が流れにくくなり、最悪腐ってしまうのでは…と思うほどでした。

今でも寒くなると指が白っぽくなりジンジンと痛みを生じます。

 

そして高2の冬の学校行事で寒稽古として柔道がありました。

その際に畳の間に足の親趾が入り捻挫をしてしまいました。

冬の大事な体力強化時期に走り込めないという事態になりました。

 

高3前の春休み。

いよいよ最後のシーズンが始まるという心躍る時期です。

内野の守備を行っていたとき、打球を取りそこね顔面で受けてしまいました。

硬球が顔面に当たるということは相当な衝撃です。

急いで救急へ向かい診察を受けました。

 

レントゲンの診断結果は「鼻骨骨折」⇒鼻の骨が折れるというもの。

手術が必要で2泊3日の入院を余儀なくされました。

 

しかもタイミングが悪いことに、同時期にマナー研修としてホテルでフレンチを食べながらマナーを学ぶ機会があったのですが、それを入院によって逃してしまいました。。

フレンチが病院食に代わってしまった。。

 

高3の6月、夏の大会1ヶ月前。

両足がシンスプリントといって、すねの骨の疲労骨折手前の状態になってしまい練習が十分にできませんでした。

最終調整のこの大事な時期にケガをするということで、チームに迷惑をかけてしまった申し訳無さ、練習できないもどかしさ、ケガをしやすい体であることにとても嫌気がさしていました。

 

夏の大会は暑さとの戦いでもあり、しいては体力勝負になってきます。

その直前に練習が十分にできなかったのはとても痛く、結局のところ最後の試合でも体力不足を露呈してしまいました。

 

最後は人としての成長が出来た高校野球生活

このようにケガが多い高校野球生活ではありました。

しかし、高校野球は人格形成の場と言われるように、 礼に始まり礼に終わる、自分の両親を含む父兄の方々、指導者、道具、環境に対する感謝を忘れない、ということを学びました。

 

反抗期だった私も、高校野球を通じて食事など日々のサポート、試合の応援といったことに対する両親への感謝を持つことができたのは、人間として大きく成長できた機会だったと思います。

 

高校時代は父も単身赴任で遠方での生活をしていましたが、練習試合など事あるごとに帰ってきてくれていました。

 

最後詳細は聞いていませんが、やりきった高校野球生活に対して一言

「よくやった」

と褒めてくれたのではないかな…と思います。

 

最後の大会もベスト8まで進むことができ、とてもよい思い出になったことは間違いありません。

 

進路を決めるにあたり

高校生活を送っていると、ついてくるのが将来どうしたいか、という進路の問題です。

私の高校は進学校であったので大多数が大学受験への道に進みます。

自分の将来を考えた時、始め航空整備士というものがいいなと憧れをもっていました。 が、物理の授業が進むにつれ、これは無理だ…と断念しました(唯一赤点を取ったのも物理でした。。)

 

ふと思い浮かんだのが、小さい頃のおばあちゃんのリハビリの風景でした。

また友達からも「これからリハビリ関係の仕事が増えてくる」と話があり、もうこれしかないと決心しました。

これと決めたら突き進むタイプなので、頭の中には理学療法学科に進むぞ! しか、もうありませんw。

 

そして高3の秋から冬。

高校野球ロスから大学受験モードに切り替わっています。

 

先生からは1日平日5~6時間、休日は10時間勉強しなさい!と言われ、本当に気が狂いそうでした。

無意識に自分で自分の頭の髪の毛を抜いているのです。

大学受験だけはもう2度と行いたくないものです。。

 

そして志望校を決めるにあたり、どこへ行くのかは非常に悩みました。

そのときも私を導いてくれたのがおばあちゃんの一言でした。

 

「自分の行きたいところに、好きなところに決めたらいいよ」

 

これが決め手で、最後は後期試験までかかりましたが地元の大学に合格することが出来ました。

諦めなくて良かったと思えた瞬間だったし、おばあちゃんへの感謝も同時にこみ上げてきました。

 

私の密かに抱いていた夢、『おばあちゃんのリハビリをする』に一歩近づいた瞬間でした!

 

おばあちゃんの死

順調な日々もそう長くは続きません。

 

大学2年の冬、20歳のときでした。

 

母から、 「おばあちゃんが緊急入院することになった…」 と聞き、慌てて病院へ向かいました。

たまたま母が出かける前におばあちゃんの様子を見に行って、いつもと調子が違うこと、急激な頭痛と嘔吐があったことで救急車を呼べたと話していました。

 

おばあちゃんの病名「クモ膜下出血」

緊急手術は成功しました。

病名は「クモ膜下出血」 大学でも学んでいたので、どういった病気かはよくわかっていました。

手術は成功してもこの先約2週間は予断を許さない状況であるとのことでした。

 

術後経過は良く、ICUでもおばあちゃんと話をすることができるくらいまで改善していました。

声を聞いてほっとし、このまま良くなるだろうなと思っていました…。

 

おばあちゃんが・・・

ちょうど2週間くらい経過したところで、再度病院から連絡が。

 

恐れていた事態が起こりました。

脳の血管が急激に縮まり、再度危篤状態に陥ってしまったのです。

医師からは、おそらくもう難しいと。。

 

親兄弟も、いとこもみんな集まりました。

最後いとこの子1人が卒論を仕上げるためにすぐには集まれませんでした。

おばあちゃんはもう危ない状態。。

 

そんなとき、最後の一人の子が駆けつけ間に合ったのです!

 

それを待っていたかのように、その後おばあちゃんは静かに息を引き取りました。

 

最後の最後でおばあちゃんの強さを見せてもらいました。

 

おばあちゃんの葬儀

葬儀は自宅で行いました。

参列してくださった方は200名以上。

改めておばあちゃんの人柄、人としての大きさを感じた瞬間でした。

これだけたくさんの人に愛されていたんだと、人とのつながりの大切さを学びました。

 

自分の夢が一つ叶った瞬間

妻との出会いは職場でした。

当時この関係を知っていたのはほんのごく数人で、バレないようにこっそりと日々を過ごしていました。

そのちょっとしたスリルを味わって、密かに楽しんでいましたね!

 

その後プロポーズをし、結婚、長女の妊娠・出産と 順調にも見えた生活でした・・・。

 

妻の父の病気・闘病生活

妻の父が病気を患い、入院・手術を行うことになりました。

手術は成功。

しかし、その後の治療経過でだんだん弱っていく姿を見ていきました。

 

妻の父は病院を退院後、自宅で過ごしていました。

はじめは何でも自分でやっていたのですが、徐々に義母の手を借りないと動けないような状態になりました。

義母が義父の手を引っ張り、引き上げるように立たせて、トイレなどへの移動を手伝っていました。

 

「お義父さんも、お義母さんも、お互いに大変そう・・・。」

 

お義父さんへの介護・そして大切な思い出

ある日、私がお義父さんの介助を手伝う機会がありました。

私がお義父さんの起き上がり、立ち上がりを介助すると、

 

『おっ!!』

 

お義父さんが思わず声をもらしました。

いつもよりも楽に立てたみたいでした!

 

その後のトイレへの移動もお手伝いし、大変動きやすいことを実感してもらえました!

普段自分が体のこと、動きのことを学んでいた成果が出た瞬間でした!

それを家族に活かすことができ、とても嬉しかったです!

 

そして過去に抱いていた『おばあちゃんに』というものではありませんが、大切な家族に自分がリハビリ・介助を行うという、一つ夢が叶った瞬間でした!

 

 

お義父さんはその後、間もなく息を引き取りました。

亡くなったあとに聞いたのですが、お義父さんが私のことをとても頼りにしていたそうです。

「あさひくん、あさひくん」と言っていたと。

頼りにしてもらっていたことがとても嬉しかったです。

 

いまの自分を作ってくれたのはおばあちゃん・お義父さん、大切な家族

こうやって振り返っていて、おばあちゃんの存在、お義父さんの存在、つまり自分の家族が今の自分を語る上でとても大きいことがわかりました。

 

おばあちゃんは病気で両足が動かなくなりました。

だけどおばあちゃんは常に笑顔と感謝を忘れない人でした。

身近で見ていたからそれがとても印象強く私の心に残っています。

 

おばあちゃんの周りには人が集まり、いつも輝いて見えました。

そしてそんなおばあちゃんが好きでした。

 

空から見守ってくれているおばあちゃんの存在

おばあちゃんが亡くなってからしばらく経ち、いまの私のセラピストとして核となるセミナーに参加しました(これについてはまた述べたいと思います)。

私のセラピストとしての師より、おばあちゃんが私のことを空からいつも見守ってくれていると知った時には嬉しくて涙が溢れました。

 

当事者としての経験・笑顔・そして寄り添うものとしてのこれから ~私の信念~

病気を持ったつらさや苦しみはその当事者でないと本当の気持ちはわかりません。

しかし私はおばあちゃんと過ごした日々から、どういったことで困るのか、どういった生活を送っていくのか、病気を持った家族としての気持ちはわかります。

 

そしてその方の気持ちに寄り添うことができます。

またお義父さんとの関わりの中で、介助する側がうまく手を取って導いてあげるだけで、普段の動作がこんなにも楽になるということも経験してきました。

 

その楽というのが体だけでなく、心のゆとりを生みます。

その心のゆとりは、笑顔につながります。

 

笑顔は人を明るくする、つらさを和らげる、気持ちが前を向く。

そんな効果があると思います。

 

『自分自身が笑顔であれ、そしてみんなに笑顔をふたたび。』

 

これが大好きな祖母から教わった私の信念です。

自分が関わることで、皆さんを温かく和ませ、自然と笑顔あふれる、 そして皆さんをサポートできるそんな太陽のような存在でありたいと思っています。

 

 

これが私が活動する意味になります。

長文でしたが最後まで読んでくださり有難うございました。

 

 

伊達あさひ

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理学療法士▶3児の父▶病院勤務15年以上▶脳卒中や骨折、脊髄損傷など延べ1000人以上の担当経験を持つ▶子どもの頃おばあちゃんが病気で倒れたのをきっかけにリハビリの世界を志す▶ご自宅で介護をする方へ向けた情報発信で介護負担を減らし、あなたやご家族の笑顔あふれる生活をサポートします▶趣味は野球、バドミントン、お酒、音楽♪

コメント1件

  1. こんにちは、これはコメントです。
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